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本題
先日、幽霊に検証して欲しい事を募集し、沢山コメントがあった。
その中から今回は「透視」が出来るかについて検証した。
【使うもの】 ①声まね人形 ②歩く人形 ③磨りガラス |
※動く人形の描写や、影や音の描写は最小限にして発言を記載します。
※視聴者イラストも著作、肖像権の観点から掲載を省きます。
検証する透視
■透視は出来ますか?
①ノートに”日本”と書いた紙を挟む
②箱の中に”みかんのおもちゃ”を入れる
5:00「ウー」

だいずさん
5:13「ウー」

だいずさん
5:27「分からない」

だいずさん
5:40「本」

だいずさん
5:46「ノート」

だいずさん
5:59「馬の絵」

だいずさん
6:08「箱の中」

だいずさん
6:17「サイコロ」

だいずさん
6:31「分からない」

だいずさん
7:42「せっちゃんねぇ、あのねぇ、何か書いてあるけどねぇ、分かんない」

せっちゃん
8:13「箱の中はねぇ、丸くてねぇ、黄色みたいな色」

せっちゃん
8:38「何か入ってる」

せっちゃん
9:35「宮本さんねぇ、最近真っ暗なお部屋に閉じこもってる」

せっちゃん
9:58「ちゃんとお日様に当たらなきゃダメ」

せっちゃん
10:07「一人だと全くダメなんだから」

せっちゃん
10:14「お世話が焼ける大きな赤ちゃんですね」

せっちゃん
今回はここまで
” 透視 ” に関連する情報
” 透視 ” 千里眼事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E9%87%8C%E7%9C%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
熊本県生まれの御船千鶴子が「千里眼」能力の持ち主として注目されるようになったのは、1909年(明治42年)、23歳の時のことである。その能力を見出したとされるのは、自身が催眠術による心霊療法を行なっていた、義兄の清原猛雄であり、千鶴子は実家を出て清原家で千里眼による体内透視の「治療」を、前年より行なうようになっていた。1900年(明治30年代半ば)頃の日本では、催眠術ブームが起こり、清原や千鶴子のような民間療法を行なう民間医が多数存在した。
最初に千鶴子を取り上げたのは、1909年年8月14日付の『東京朝日新聞』である。「不思議なる透視法[1]」として、千鶴子が、京都帝国大学の前総長であった木下広次の治療を行なったことを報じている。